来歴・人物
1931年10月23日、僧侶・喜多川諦道 の長男として、アメリカ・ロサンゼルスに生まれる。母親は幼少時にアメリカで死別している。
太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により父や姉・メリー喜多川(本名: 喜多川泰子)とともにカリフォルニア州内に抑留されるが、1942年6月18日の第一次日米交換船で帰国した。
終戦まで日本で過ごし、両親の出身地・和歌山県和歌山市に在住していた。しかし、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼け出される。戦後は姉とともに再渡米、ロサンゼルスの高校を卒業。
そしてロサンゼルス市立大学を卒業した姉とともに日本に再帰国し、アメリカ大使館に通訳の助手として勤務。その後朝鮮戦争が勃発、アメリカ陸軍の一兵卒として朝鮮に出征した。復員・除隊後日本に戻り、大使館を退職。
その後、上智大学国際部(比較文化学部、2006年からは国際教養学部)に進学し、卒業。大学在学中の1955年にバンドを結成し、芸能界へ入る。
ジャニーズ事務所の設立
1962年頃、東京の代々木公園で野球のコーチをしていた。そこがジャニーズ事務所の始まりである。喜多川の芸名・事務所名である「ジャニーズ(ジャニー)」は、過去に主宰していた少年野球チーム「ジャニーズ」に由来している。この「ジャニー」は、本人のニックネームに由来するものと思われる。
ある日、少年野球のメンバーを連れて映画館に入り、そこで見た『ウェストサイドストーリー』に感動し、エンターテイメント事業を起こす決意をしたといわれる。
姉のメリー喜多川は赤坂でバーを開き、バーの客だった作家・藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになる。
事務所の黎明期は、たのきんトリオ・シブがき隊・光GENJIなどで正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。
本人はテレビなどメディアの露出を避けているが、所属のアイドルによって行動が明らかにされている。スカウトする際は「(世界の)ジャニーだよ!」といきなり電話で名乗ったといわれる。「ユー(たち)、来ちゃいなよ!」などと、いきなりジュニアアイドルから有力な人物を呼んでデビューさせたなどのエピソードがある。
セクハラについて
ジャニーが同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対してセクハラ、および同性愛の強要を行っているとの話は、1970年代から散発的に繰り返し報道されていた。
たとえば1988年から1989年にかけては、月刊誌「噂の眞相」がこの問題を数回取り上げており、元所属タレントである北公次も、『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)と題した告発本を出している。
1999年には、週刊文春がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は、名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
なお、自民党の阪上善秀は、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている。
裁判
2002年3月27日の一審判決ではジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。
2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側のセクハラ行為を事実と認定した(矢崎秀一裁判長)。このためセクハラ部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償とセクハラ行為の事実認定が確定した。
また、ジャパン・スケプティクス(安斎育郎会長)の機関誌『NEWSLETTER 53号』やニューヨーク・タイムズ、ザ・オブザーバーなどの海外メディアでも大々的に取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を批判した。
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